バウハウスで予備教育を担当した画家ヨハネス・イッテンは色彩学を構築した理論家であった。授業で「歴史上の名匠の分析」を行った。ドイツの代表的な画家グリューネヴァルトの「嘆きのマグダラのマリア」を題材に生徒に模写をさせた。「ヨハネの福音書」によると、イエスが十字架に掛けられた時に高弟たちは自分たちも罪を問われるだろうとして逃げ去ったが、マグダラのマリアはイエスの母マリアと共に、嘆き悲しみ、イエスの死を見ていた。生徒たちは模写の筆をすぐに進めたが、イッテンは「お待ちなさい、マグダナのマリアと共に悲しみなさい、それでないと本当の芸術はできない」と諭したそうである。小生が高等学校2年の時のドイツ語の教師であった坂崎乙郎が授業から脱線し、「わが子を戦争で失った母親が描いたわが子の像はどんな有名画家が描いた母親の子の像よりも真に迫るものがある」と語り、挨拶もなしに教室を出て行ったことが印象に残っている。
(田中辰明 お茶の水女子大学名誉教授)
バウハウス2代目校長のハンネス・マイヤーは優れた建築家であったが、初代校長、3代目校長が余りに高名であったために少し影が薄く、気の毒な存在である。氏はベルリン郊外のベルナウに「連盟研修学校」という作品を残している。全体的にガラスを多用して、明るい建築となっている。谷崎潤一郎は「陰翳礼賛」というエッセーを残している。日本建築の美を作家の目で次のように述べている。「もし日本座敷を一つの墨絵に例えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光と蔭との使ひ分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこには此れという特別なしつらへがあるのではない。・・・以下略」
マイヤーの建築はただガラスを通して明るさを室内に取り込むことに一生懸命で、谷崎が述べるような日本建築の細やかさは感じられない。日本のように緯度の低い土地での建築は日射を防ぐことが大切で、それがために庇が発達したのであろう。ドイツのように緯度が高い土地では庇は不要でむしろ日射を取り込むことが大切なのであろう。
(田中辰明 お茶の水女子大学名誉教授)
バウハウスへの日本人留学生の一人に山脇道子がいる。山脇道子はお茶の水東京高等師範学校付属幼稚園、お茶の水東京高等師範学校附属小学校、お茶の水東京高等師範学校附属高等女学校を卒業している。そして婿養子となった山脇(旧姓藤田)巌と結婚、一緒に1930年にバウハウスに留学している。山脇道子の回顧録「バウハウスと茶の湯」(新潮社)のカバーには「茶の湯の世界に生まれた20歳の日本人女性が、太平洋と大西洋を渡航してモダンデザインの源流をなす造形大学バウハウスに入学。カンディンスキーやアルバースから親身な指導を受け、クレーの前で日舞を踊り、ミース・ファン・デル・ローエとすき焼きパーティー・・・。黄金のモダニズム期を痛快に生きた「おしゃまな」モダンガールの回顧録。」とある。山脇道子はバウハウスでテキスタイルを研究し、帰国後は自由学園工芸研究所などで、後進の指導に当たった。私も大学では被服学を専攻した。山脇道子は私にとって、素晴らしい大先輩と思える。山脇道子の辿った道を研究したい。
(西塚典子 日本バウハウス協会事務局研究員)
私の通った高等学校では第二外国語の授業があった。私はドイツ語を選択した。そして2年生になった1957年に坂崎乙郎先生にドイツ語を習った。1957年というと、「もはや戦後ではない」とは言われたが、高度成長期に入る前の貧乏な時代であった。坂崎先生はドイツ留学から帰国された直後であった。当時海外に留学するなど、非常にまれな時代であった。
いつも挨拶もなく授業に入った。坂崎先生の授業は時々脱線があった。そしてドイツで勉強された、バウハウスやパウル・クレーの話をされた。高校生には勿体ない授業であったが、脱線話は常に新鮮で刺激的であった。そしてドイツ語を勉強すれば、このような面白いことにありつけると考えた。そしていつかはドイツに留学したいとも考えるようになった。その為にはドイツ語を一生懸命勉強しなければならないと考えた。高校生の時の夢はかない、会社勤めをしながら受験したドイツ学術交流会(DAAD)の試験に受かることができた。1971~73年の間ベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所で研究する機会に恵まれた。そしてバウハウスの研究をする機会を得ることができた。坂崎先生の脱線授業に感謝するものである。
(田中辰明 お茶の水女子大学名誉教授)
日本バウハウス協会発足にあたり、事務局で仕事をするようにお誘いを受けた。最初場違いの感じを受け、辞退しようかと考えた。
私は大学では家政学部被服学科に籍を置いていた。かつ専門は「被服構成学」であった。グロピウスが構成学(Gestaltungslehre)という学問を創ったという事は授業で教わったような記憶がある。大学で習った構成学の創始者グロピウスとバウハウス初代校長のグロピウスが同一人物であることを知り、大いに驚いた。バウハウスでは構成学が教授された。構成学とは芸術やデザインに共通する色彩や形態の造形要素を追求する学問である。それまで、経験にゆだねられてきたことを科学的手法で解決しようとするものである。バウハウスの時代では写真が構成学の武器として使用された。
協会に籍を置かせていただいたことに大変感謝し、微力ながらバウハウスとテキスタイルの関係を中心に研究を進めていければと考えている。
(西塚典子 日本バウハウス協会事務局研究員)