・タウトを招いた頃の高崎の状況
1929年、[1]井上房一郎(以下井上と表記)がパリから帰国してから高崎では井上を中心に新しい工芸運動を展開し始めている。木工、竹工、漆工、染織、などの事業化を手始めに研究がなされデザイン化を進め職人の養成や製品の販売までもプロデュースし、優れた工芸理念を大衆に提供しようとしていた。この理念は・・・・・続く
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・タウトを招いた頃の高崎の状況
1929年、[1]井上房一郎(以下井上と表記)がパリから帰国してから高崎では井上を中心に新しい工芸運動を展開し始めている。木工、竹工、漆工、染織、などの事業化を手始めに研究がなされデザイン化を進め職人の養成や製品の販売までもプロデュースし、優れた工芸理念を大衆に提供しようとしていた。この理念は・・・・・続く
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2022年5月26日に催された日本バウハウス協会主催の渡邊大志氏のZOOM講座を拝聴した。シナスタジア・シーナリー(共感覚の風景)というテーマでとても興味深く受講した。紹介されていた「ひとつなぎの建築」の本をネットにて注文、この本の帯には「互いに自立しながら、全体として緩やかに共存する建築・デザインの未来を探る。」の一文が書かれていた。・・・・・続く
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バウハウスマガジン No.4
私は長い間ドイツの大きな研究機関であるフラウンホーファー研究所の東京事務所長をしておりました。その後産業総合研究所の研究員、早稲田大学の非常勤講師、東北大学の研究員などをしておりました。出身は・・・・・続く
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バウハウスマガジン No.3
ドイツヴェルクブンドは1907年に設立された。その動機はプロシャ美術工芸学校連盟の支配人であった建築家ヘルマン・ムテジウス(Hermann Mutesius)が行った講演による。ここで・・・・・続く
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バウハウスマガジン No.2
1.はじめに
バウハウスは、1919年に諸芸術の総合という最終目標に向けて、新たな創作者(徒弟)を養成する機関として出発した。補足するなら、建築教程の設立は1927年まで下ることになる。その前夜には、・・・・・続く
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バウハウスマガジン No.1
それは1996年の大学が春休みのことだった。3月末、まだ寒い日の午後ベルリンから列車でワイマール駅に到着し、プラットフォームに降りると、そこにいきなり「こんにちは」と、慣れた日本語で近寄ってきた若いドイツ人が迎えにきてくれていて、びっくり。・・・・・続く
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