100年後に実現したバウハウス アム・ホルン新住宅群

21世紀によみがえった住宅開発コンセプト

アム・ホルン新住宅群の街並み(ドイツ・ワイマール市)

音楽の父バッハ、芸術家ゲーテなどの活躍の舞台として知られる文化都市ワイマール。9世紀まで歴史を遡ることができるドイツ中部のこの都市の一角に、周囲の街並みとは明らかに異なった佇まいの住宅街がある。アム・ホルン新住宅群(Neues BauenamHorn)と呼ばれるこの地域の開発はテューリンゲン州とワイマール市の公式事業として1996年にスタートしたものだ。

 アム・ホルン新住宅群は単なる地域開発ではない。約百年前の1919年、ワイマールに先進的なデザイン教育研究機関バウハウスが誕生。今日、バウハウスは独創的デザインの椅子や照明などのプロダクトで知られるが、その中心にあるのは〝より良い暮らしのための住まい〞というコンセプトだった。事実1923年に、バウハウスはワイマール市に対して住宅地開発の提案を行っている。

 この時点では、住宅地開発は実現されなかった。しかしそれから約百年が過ぎた現在、ワイマール市の同じ場所に、かつてのバウハウスの住宅開発コンセプトに基づいた新たな住宅地、アム・ホルン新住宅群が誕生しているのだ。

 果たしてアム・ホルン新住宅群には、バウハウスが提唱した〝より良い暮らし〞のビジョンがどんな形で継承され、生かされているのだろう? それを確かめるため現地を訪れた。

アム・ホルン新住宅群に生きるバウハウスの志

上空から見たアム・ホルン新住宅群(写真中央部分)

住む人を中心とした住宅開発を

 アム・ホルン新住宅群誕生のいきさつを伺うため、ワイマール市で都市計画を担当するカローラ・ハイデさんを訪ねた。

 「この場所は中世には壁に囲まれた都市の一部でしたが、1830年に軍隊の兵舎になりました。第一次世界大戦開始時には5ha(5万㎡)、今は11haとなっています」

 第一次大戦終了後の1922年、ワイマール市はこの土地の活用案を募った。提案の中にはバウハウスの創設者であるヴァルター・グロピウスの住宅開発案もあったが、計画は予算不足もあって中止となる。しかしこの時ハウス・アム・ホルン(アム・ホルンの家)と呼ばれる建物が一棟だけ建設された。

バウハウス創設者のヴァルター・グロピウスと建築家フレッド・フォルバートによる
バウハウス住宅開発地のスケッチ。1922 年。
グロピウスとフォルバートによる積み木タイプの組み合わせ型規格住宅の模型。
1923年。

 その後、土地は再びドイツ軍施設となり、第二次世界大戦後はソ連軍に接収された。 「1991年にソ連軍が撤退し、土地が返還されました。テューリンゲン州はワイマール市、バウハウス大学と共同で、かつてのバウハウスの計画を参考に地域の再開発を行うことにしたのです。ただし、当時の計画をそのまま再現するのではなく、現代の人に最適な住まいは何かを追求しました。住む人を中心に考えることがグロピウスの思想ですから、もし今の時代にグロピウスが生きていたら、きっと同じことをしたと思いますよ」

 こうして、今にベストなバウハウスの家づくりが始まった。

 1996年、開発プランのコンペティションが開かれた。ヨーロッパ各国から11の建築事務所が応募し、スイス、オーストリア、イタリアの3社が担当地域を分担、共同で開発を進めることとなった。

 住宅地を担当したオーストリアの建築事務所は、土地を画一的に区切るのではなく、バウハウスの積木の理論にヒントを得て、幅7・5mから22・5mまでパターンを設定し、大小の区画を組み合わせるプランを立てた。小さな区画は、予算が限られている人でも購入できた。土地が狭いと庭を十分にとれないが、隣地との境界に塀を設けることが禁じられているため、隣の広い区画の庭を楽しむことができる。借景の発想が採り入れられたのだ。

個性ある家がつくり出す地域の一体感

厳しいルールを守りながらも個性のある住宅群

マティアス・シュミットさんとアンチェ・オスターヴォルトさんは、アム・ホルン新住宅群の住まいを多数手がける建築家ご夫妻だ。

 「設計上の制限がたくさんあることは、それほど問題ではないんです。〝ご自由にやってください〞と言われ、後からいろいろ問題が出てくるよりも、最初から制限の範囲内でつくる方が、かえって楽ですからね」

 お二人もアム・ホルン新住宅群の住人だ。きっかけは、この土地に家を建てたいという依頼を受けたこと。結局、その依頼主は他の街に家を建てることになったが、シュミットさんはこの場所が気に入り、自分たちの家を建てたのだという。そのシュミットさんの家を見て、アム・ホルン新住宅の地域に家をつくりたいと希望して来る人も少なくない。

 「依頼者には、お医者さんの問診のようにいくつか質問をします。訪問客は多いか、子どもがいるかとか。話の中から、その人にどんな住まいがふさわしいかイメージが湧いてきます。こちらが聞く必要のないプライベートな話をする人もいます。けれど、個人の家をつくるということは、その人とそこまで関わるということなんです」

 〝より良い暮らし〞のための環境をつくるという考え方に貫かれたアム・ホルン新住宅群には、他の地域にはない特色がある。

 「すべてが個人住宅で、しかも個性がある。それなのに一つの地域としての一体感があります。住民のつながりも強い。こんな場所はドイツ中探しても他にはないでしょう。時間が経って住民が入れ替わっても決まりごとがしっかりと守られている。それは最初のマスタープランが皆に理解されているからです」

 最後に、シュミットさんの家づくりとバウハウスの思想との関係を伺った。

 「私はワイマールの大学で建築を学んだので、バウハウスの考え方は自然なものです。他の建築家もそれぞれ自分の考え方でつくりますが、バウハウスの〝できるだけ控えめにして余計なものをつくらない〞という考え方は共通しているのです。決まりごとが多くて苦労する面もありますが、しっかりした枠組みがあるからこそ、その中で個性が発揮できるし、創造的な仕事ができるのです」

 「建物の高さも制限されています。上限は3階建てで屋根はフラットとすること。外壁をできるだけ平らにつくることも条件でした。床の高さも制限されました。床が高すぎると外部に階段が必要となり、地域全体を緑でつなぐ流れを分断してしまうからです」

 基本ルールが定められた後、土地の購入者が建築事務所を探して家を建てるという、ドイツでは一般的な方法がとられている。そのため市や州の担当者は、施主や建築家たちに他の地域にはない条件を理解してもらうべく、精力的に話し合いをもったという。

 「ただし、制約が多すぎると誰も買わなくなってしまう恐れもあるので、建物の色など建築家に任せた部分も多い。それでも、ワイマールの建築家は地元のバウハウス大学出身者が多いため、指定がなくてもバウハウスのマナーに基づいた設計をしているんです」

企画・取材・編集:城井廣邦 日本バウハウス協会専務理事 
文:前田祥丈
(ミサワホーム月刊誌 HomeClub特別号掲載)